February 21, 2006

飲み会、サリンジャー

 今日も仕事の飲み会。ちょうど一週間ぶりである。
 今日もまた、焼肉屋へ。

 かなりしっぽりと酔った。いくらでも食べ、飲めてしまう。
 このブログをいま書きながら、頭がくらくらとしている。
 視点がうまく定まらない。
 かなり飲んだのに、今また帰ってきて、缶ビールを開けて飲んでいる。

 最近は仕事の休み時間に、サリンジャーの短編をよく読んでいる。
 サリンジャーに限らず短編小説のいいところは、せいぜい20分から30分あれば、一本の作品を十分ゆっくりと堪能できるところだ。

 今日読んだのは、サリンジャー選集「2」の中の、「最後の休暇の最後の日」である。この作品には、「ライ麦畑のキャッチャー」の主人公であるホールデン・コールフィールドの兄が登場する。まだ「ライ麦畑」が書かれる前の習作的作品であり、「兄」と言っても、実際にはホールデンその人と同じように奇矯で、屈折した人物である。どちらがホールデンなんだか、よくわからない。
 
 しかしそれにしても、サリンジャーの短編は、たとえ習作的なものであろうと、その一つ一つが、不思議に深く胸を打つものがある。たいしたことなんて何一つ書かれていなくても、まるで尻切れトンボのような内容の不明確なものでも、商業誌に売り込むだけのとるにたらないオチしかないものであっても、それでもそこには何かしらサリンジャーらしさが宿命的に漂っている。

 僕が思うに、それは一種独特の(サリンジャーという一個人独特の)、宿命的な痛々しさである。
 細かく言っていけばキリがないが、僕らがサリンジャーに惹かれる理由というのは、つまりはそういうことなのだと思う。
 僕らはその痛々しさに惹かれるのである。
 純粋で、まっすぐな感情と、傷つきやすさ、そこに当然のごとくに生じる苦悩、すれ違いや摩擦。どこまでいっても分かり合えないもの、歩み寄れない隔たり。

 サリンジャーの「ライ麦畑」でホールデン君に言わせているセリフそのままに、サリンジャー自身も、山の奥深く、世間と隔絶された場所へとこもってしまった。
 それっきり、二度と出てこなかった。

 彼は結局最後まで、世間一般的なものと妥協することが出来なかった。
 人生そのものとうまく折り合いをつけることが出来なかった。
 純粋さや、無垢さというものを信じ、守ろうとし続けたが、それは本来的に不可能な試みだった。

 僕らがサリンジャーの小説に憧れるのは、そのような不可能な試みの”痛々しさ”のせいのせいであり、その不可能なものを可能にしようとする純粋さへの熱望や信奉が、彼らしい、もっとも美しい形で提出されているからである。
 
 それが果たして正しいことなのか、可能なことなのかどうかなんて、問題ではないのだ。
 サリンジャーの小説は、人が何を守っていくべきかについて、いつも僕に考えさせる。

 ライ麦畑で、小さな子供たちをつかまえてあげること以上に素晴らしいことが、この人生にあるのだろうか?

 そう、深く考え込まされてしまうのである。

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jailz at 22:14│Comments(0)TrackBack(0)日記 | 

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