February 08, 2006

映画「ハイド・アンド・シーク−暗闇のかくれんぼ」

 2005年4月23日に公開された映画。

 ラスト15分で、驚くべき謎が明かされる。
 この映画の結末は、決して誰にも言わないで下さい・・・というのが、この映画のセールスコピーだ。

02ハイド(あらすじ−goo映画より)
母の自殺以来、心を閉ざした9歳のエミリーは、心理学者の父デビッドとともにニューヨーク郊外へ引っ越した。
デビッドはエミリーに友達を作るように仕向けるが、エミリーは誰にも心を開くことはなく、見えない友達「チャーリー」とだけ遊ぶようになる。戸惑いながらも、エミリーの空想を静観することにしたデビッドだが、
やがてチャーリーの存在は、彼らの生活を脅かしていく。娘を救うため、デビッドはエミリーの心の闇を解明しようとするが…。


03ハイド エミリー役の若干10歳の女優、ダコタ・ファニングは、ちょっと信じられないぐらい見事な演技ぶりだった。
 母の自殺から始まって、空想の友達と遊ぶその狂気、感情の振幅の幅広さや、ラストへ向けての逡巡、悲哀。
 まさに天才子役である。
 デ・ニーロを見るのもなんだかずいぶん久しぶりな気がした。
 映画のたびに太ったり痩せたりする役者、その芝居の幅も非常に広く、昔から僕の尊敬する俳優の一人である。
 ひと頃に比べるとだいぶ毒が抜けたような気もするが、まあこういう設定、こういう役だから、ということなのだろう。
基本的には、その気になればどんな人物にでもなれる彼である。

 映画そのものの出来はどうかというと、正直に言って、それほどたいした映画ではないと思う。
 好みの問題もあるだろうけれど、この手の「意外な結末」にはもうみんなそれなりに慣れてしまっているし、それだけで1本の映画を作ろうとする試みは、そもそもの最初から負け試合にならざるを得ないのではないか、という気がする。
 ドラマとしては底が浅く、最後の意外性のためだけに、いろいろとつまらない手管を弄しなければならない。
 思わせぶりなだけの、ただのご都合主義じゃないか、と思われても仕方ない部分もある。
 
 それからDVDに特典として収録されている、いくつものエンディング・パターン。
 こういうことは非常によくないと僕は思う。
 それはドラマの作り手として、自分の作り上げたストーリーに責任を持たない、誇りを持たない行為であるとしか思えない。
 可能性の問題ではないのだ。
 作り手としても観る側としても、そこに描かれない無限の可能性を想像することはいくらでも出来る。
 でもだからといって「こういうのはどうですか」、「こんなのもありだよね」といろいろなパターンを実際に示してみせるというのは、もう映画でもドラマでもなんでもない。
 死んでもリセットボタンで生き返る、ゲームのようなものである。

 ほとんどの人たちがおそらく「ふーん」と思うだけであり、いくらそんな風にエンディングをいじってみても、本編で感動させられなければ、基本的になんの意味もない。

 そしてドラマというのはそもそもそういうものではないと僕は思う。
 人の生き死にと同じように、そしてこの限られた人生と、二度と取り返しのつかない選択の連続と同じように、自分とは別の場所で生きる、別の境遇や時代に生きる人物たちのやはり限られた可能性と取り返しのつかない選択の積み重なり、偶然、運命や宿命性、なぜその人物がやってきて、なぜそのような場所へと向かわなければならなかったのか、ということの不思議に出会い、僕らは共感したいと思う。
 少なくともそのために、僕は映画館や劇場に足を運ぶのである。

 どんなに恐ろしくても、どんなに意外な結末が待っていようとも、やはり基本的な部分で、しっかりと人間ドラマを描いて欲しい。そうでなければ、その映画を「もう一度見たい」とは誰も思わないだろうし、その場限りのお祭り騒ぎで終わってしまう。そういう映画は、やはり才能と労力とお金と時間の過剰な浪費であるように思う。心に深く残ることもない。

 デ・ニーロもダコタ・ファニングもとてもいい役者なだけに、「もったいない」というのが僕の率直な感想だった。

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